在日本韓国YMCA連続講座Cut'n'Mix

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  • 10/30(土)18:30-20:30、5月より延期となっていた米谷匡史(思想史)「大阪朝鮮詩人集団のサークル文化運動 ――詩誌『ヂンダレ』と「流民の記憶」」を開講します。
  • <2010/10/26>第3期の記録をアップしました。

第3回 6/4 (金)
金貴粉(国立ハンセン病資料館学芸員)
「解放後における在日朝鮮人ハンセン病患者と出入国管理体制」


1980年生まれ。国立ハンセン病資料館学芸員。現在、在日朝鮮人ハンセン病患者史、ハンセン病回復者による芸術活動、朝鮮書芸史を主な研究テーマとして、活動している。共著や論文に「解放後における在日朝鮮人ハンセン病患者の「位置」−1945年から1950年代を中心にー」(『クァドランテ』9、東京外国語大学海外事情研究所)、「朝鮮癩予防協会の設立とその背景−八紘一宇の塔を手がかりに」『平和概念の再検討と戦争遺跡』(明石書店)、「在日朝鮮人ハンセン病患者と出入国管理体制」(『学術論文集』第27集、朝鮮奨学会)等がある。その他、編著に『趙昌源絵画展図録』(国立ハンセン病資料館、2007年)、『こころのつくろい展図録』(2007年)、『北高作陶展図録』(2009年)、『桃生小富士展図録』(2010年)等がある


講座の記録

新井晶子(実行委員)


国立ハンセン病資料館
 在日朝鮮人ハンセン病者は植民地期に労務者として故国を離れ、強制連行されて日本に来た者も多い。在日朝鮮人患者の収容者割合が一般社会に比べて高いのは、ハンセン病の感染・発病は栄養・衛生状態に影響され、朝鮮民衆が日本の植民地支配により生活を低く押し下げられていたからだと説明された。
 「解放」後、帰国事業と強制送還がおこなわれ、日本への逆流(密航)が生じる。故郷の荒廃、半島の情勢不安、祖国での新しい生活の困難が逆流の主な理由である。1946年GHQ により朝鮮半島と日本の間に分断線が引かれ、「再入国」は「密入国」とみなされるようになる。更に出入国管理のために1947年5月2日、朝鮮人は「帝国臣民」から「外国人とみなす」と一方的に曖昧な地位に置かれることになる。外国人登録証は、患者のあいだでも議論され、法律を無視したら日本政府がつけ込み何をしてくるか不安なためしぶしぶ受け入れることにした者もいる。当時大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国は成立しておらず登録令に従うときに書く国がなく、多くの人は「朝鮮」と書いていた。療養所では、「癩予防法」により隔離政策がとられ、登録証は一括保管されており、「登録」義務化は朝鮮人管理や治安維持の手段となっていたとのだと指摘された。家族と再度引き離された患者も多い。
 帰還事業と同時に「強制退去」が同時に行われる。患者たちは強制送還しないようにと厚生省に訴えるが、政府関係者は「療養できるように」(『参議院外務委員会会議録第六号』1952年2月26日、専門員(久保田寛一郎)発言)、「送還船のある都度隔離病室を作って送還しておる」(同前、政府委員(石原幹市郎)発言)と、療養も送還も肯定し患者の声には答えていない。ここに朝鮮人が解放民であるという認識の欠如があると金貴粉さんは指摘する。強制退去は1996年「らい予防法」廃止まで明記されていたことが述べられ、これは金貴粉さんにとっても驚くべきことだと語られた。
 敗戦後も、長島愛生園園長であった光田健輔は朝鮮人と犯罪を結びつけ危険性を訴え、取り締りを主張する。この過剰な警戒心の背景に「癩予防法」改正の動きと、らい予防法闘争があった。園長側から隔離政策の継続と懲戒検束規定(法的根拠なしに患者を処罰できる)の強化が求められ、1953年菊池医療刑務支所が開設される。1938年草津栗生楽泉園内に秘密裏に患者を閉じ込めることができる重監房(「特別病室」)が設けられていたといい、諸説はあれ事実が発覚するまで92人の方が閉じ込められ、22人の方が亡くなった。事実発覚後も1953年のらい予防法には強制隔離の条文、謹慎・戒告の懲戒検束規定も残されたままだった。特効薬が発明されハンセン病が治ることが分かった後である!
 1954年8月29日大村収容所の菊池分室で洪水万という当時31歳の男性が放火自殺する。彼のことを同園入所者・韓石峯は『菊池野』(菊池恵楓園入所者自治会機関誌)に記している。講師はこれを朗読された。短く紹介すると、金正守(洪水万の仮名)は大正12年、朝鮮慶尚南道に生まれ、第二次世界大戦中に軍事動員で日本に渡り、敗戦後真面目に働いていたが、ある日仕事場の工場を鉄棒を持って出た際に警察に尋問される。偶然不注意で外国人登録証を持っておらず結果懲役6ヶ月とされる。神戸の出入国管理庁に回され、ハンセン病であることが発覚、分室に送られ、暫くして外出不可能となった。韓石峯は1953年の「厳守事項」で出口の見出せない自分の状況を自覚し死を選んだのではないかと述べる。
 金貴粉さんは、「解放」後も日本が如何にして「朝鮮人」「ハンセン病患者」を問題とし、在日朝鮮人患者の「生」を制限し、死に追いやったのかを、植民地主義の継続を支えハンセン病患者を閉じ込めた私を含めた日本社会の多くの人間に問うたのだと言える。(実行委員 新井晶子)

参加者の感想

(掲載にあたり一部抜粋させていただきました)

参加者の感想
○懲戒検束権や重監房が朝鮮人へのとりしまりや犯罪を理由に設置、強化されたと聞き、衝撃でした。
日本人の元患者さんたちのお話しからだけでは見えてこない部分があることを改めて感じさせられました。
ハンセン病に対する強制隔離政策自体が非常に深刻な人権侵害政策だと思いますが、その中でなお、在日の方への差別(特に光田健輔の発言)思想がここまで根深くある(あった)ことに怒りを感じました。

○お話がわかりやすかったです。ただちょっとハンセン病と、朝鮮人の差別問題のつながりの部分をもう少し厚く話して欲しかったです。

○差別と排除の眼ざしが一人一人の生をどんなに抑圧しゆがめていたか、これまで全く知らなかった事実としてよくわかりました。お一人お一人の生を思うと直ちに言葉にしがたいほど痛ましい思いを抱かされました。制度によって隠蔽されている歴史的事実に光をあてていくことの重要性を改ためて考えました。

○今ではハンセン病は「不治の病」ではないと認識されるようになったが、かつての日本の対応のひどさにおどろいた。これらの負の歴史を正しく伝えていきたいと思った。

○私自身も在日なのですが、在日のハンセン病の方がいらっしゃることを今回初めて知りました。とても恥ずかしかったです。今回このような講座に参加できて、とても良かったです。これからはハンセン病に関心を持てるようにしたいと思いました。



5/7 (金)
洪貴義(政治学、思想史)「在日の過去と未来の間」
5/15(土)
挽地康彦(社会学、移民研究)「大村収容所の社会史」


6/4(金)
金貴粉(国立ハンセン病資料館学芸員)「解放後における在日朝鮮人ハンセン病患者と出入国管理体制」
6/5(土)
講師:五十嵐泰正
上野フィールドワーク−上野の山と街を歩く
6/18(金)
鄭栄桓(在日朝鮮人運動史)「朝鮮『解放』と在日朝鮮人の法的地位」
7/17(土)姜信子(作家)
「われらの記憶、もしくは空白  〜語りえぬ記憶の接続法〜 」
7/24(土)崔真碩(朝鮮文学)
「李箱 生誕100年」
 
10/30(土)米谷匡史(思想史)
「大阪朝鮮詩人集団のサークル文化運動 ――詩誌『ヂンダレ』と「流民の記憶」」