在日本韓国YMCA連続講座Cut'n'Mix

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Cut'n'Mix第3期「韓国併合」100年/「在日」100年を越えて
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  • 10/30(土)18:30-20:30、5月より延期となっていた米谷匡史(思想史)「大阪朝鮮詩人集団のサークル文化運動 ――詩誌『ヂンダレ』と「流民の記憶」」を開講します。
  • <2010/10/26>第3期の記録をアップしました。

第2回 5/15(土)
挽地康彦(社会学、移民研究)
「大村収容所の社会史」


朝鮮戦争が勃発した1950年、日本の西端で大村収容所が誕生した。朝鮮海峡をまたいで起きたこの二つの出来事の間には、どのような関係があるのか。このセミナーでは、被占領期日本の入国管理に注目しながら、交錯する帝国のレイシズムについて考える。

和光大学教員。専門は社会学、移民研究。主な仕事に、「大村収容所の社会史(1)」(『西日本社会学会年報』3号、2005年)、「占領期の〈九州〉と密航・密貿易」(松本・大島編『九州という思想』花書院、2007年)など。

講座の記録

高橋梓(実行委員)

 2004年に発表され、今ではDVDも発売されている『海女のリャンさん』(2004)、『HARUKO』(2004)という在日朝鮮人女性の個人史を追ったドキュメンタリーがある。彼女たちは済州島に生まれ、植民地期に日本での生活、労働を経験し、解放後は南北分断の過程(済州島4・3事件)で日本に密航、家族離散するという共通の経験を持つ。同時に、家族や自身が大村収容所に収容されるという経験でも共通する 。
 大村収容所は、米軍占領期の1950年12月、強制送還が決定された不法入国者等を収容・送還する施設として、長崎県大村市に設置されたが、そこに収容される「外国人」は、「日本の植民地支配の余波にさらされた朝鮮人不法入国者や刑余者」であった。上述した二つの例を見ても、「解放」後に再入国した在日朝鮮人は「密航者」の経験と、大村収容所への収容の経験と隣り合わせていたことがわかる。彼らの経験は、ベトナム戦争で九州各地に漂流した「インドシナ難民」が、大村収容所に隣接された「大村難民一時レセプションセンター」に収容され、定住支援を受けたのに対し大きく異なる。
 「解放」を迎えたにもかかわらず、なぜ在日朝鮮人は「密航者」として管理されたのだろうか。朝鮮戦争時に「密航者」として大村収容所に収容され強制送還された朝鮮人の経験と、上述した「インドシナ難民」との経験の差異からこのような問いが出され、挽地康彦さんの「大村収容所の社会史」(5月15日)は始まった。講座では、大村収容所、九州北西部沿岸という地政学的な空間に焦点を当てることを通して、連合軍や日本社会の絡み合った関係性、朝鮮人越境者が「密航者」として管理の対象になった経緯の考察がおこなわれた。
まず在日朝鮮人が「密航者」という管理の対象になったことをめぐり、連合軍と日本政府の連係が指摘された。植民地期に「日本国民」であった旧植民地出身者は、サンフランシスコ講和条約発効まで「日本国籍」を有する内なる外部として、複雑かつ不安定な法的地位を担わされる。外国人の人権保障の立場をとったGHQは日本の旧憲法体制とは対称的だが、「占領当局の利害や態度と日本のコロニアルな姿勢との調和」(テッサ・モーリス=スズキ)がおこなわれた。具体的には帰国事業の”逆流”阻止と防疫対策(コレラ流入阻止)が日本政府の新たな国境に依拠した管理取締と連係することになる(ジョン・ダワー「SCAPaneseモデル」)。さらに朝鮮半島南北分裂、中華人民共和国成立といった東アジア情勢、アメリカ占領政策の変化(反共の防波堤)を通して、コレラ流入阻止は「共産主義への脅威」へ転位し、「密航者」管理は継続する。このようにして、在日朝鮮人のこれまでの生活圏・交易圏が分断され、人びとの移動の目的が変わらない中、密航・密貿易社会が誕生したのである。
 さらに、在日朝鮮人をめぐる「密航者」としての管理は、戦後日本のナショナリズムに結びつくことで、米軍占領期以後も継続することになる。1952年5月、講和条約発効後の第1回目の強制送還を韓国政府が受け入れ拒否した「逆送還事件」が起き、その結果強制送還反対と逆送還者の即時解放を求める闘争へとつながっていった。挽地さんは、同時期に起きた「日本人漁夫抑留事件」によって日本で大村収容所が初めて関心を集めたことに焦点を当てる。「日本人漁夫抑留事件」とは、李承晩大統領による海洋主権「李承晩ライン」内で操業した漁夫がつかまり、釜山に抑留されたというものである。そして、これらの事件は1957年12月31日「日韓抑留者相互釈放覚書」という外交処理により決着するが、それは大村収容所の旧植民地出身収容者の不安定な法的地位に目を向けられた結果の釈放ではなく、日本人漁夫釈放の掛金としての釈放であったという。よって大村収容所をめぐるこれらの事件が日本の領域意識(戦後ナショナリズム)を高めることにより、「密航者」としての管理が継続されることになる。
 質疑応答では、朝鮮戦争期の朝鮮人をめぐる人権問題が指摘された。当時彼らは「密航者」とされることで、戦場から逃れてきた/逃れているにもかかわらず、戦場に戻される危険に晒されていたのである。
 解放されたにもかかわらず、「密航者」として管理されたという、挽地さんが大村収容所を通して提示した構造や視点は、「併合」100年/「在日」100年の植民地遺制の暴力の継続を示してくれた。


参加者の感想

(掲載にあたり一部抜粋させていただきました)

○大村収容所については、在日の歴史を語る上でぬくことができないと思っていましたが、まだ明らかになっていないことも多いのだと改めて先生のお話をきき、考えました。植民地支配が終わっても、なお一方的な分断線が引かれ、その中で生きざるをえなかった人々の人生を考えていきたいです。

○難しすぎず易しすぎず、すばらしい講演をありがとうございました。私は産まれて18年間を福岡で過ごしました。しかし、私は大村収容所の存在を知らなかったです。それは、我々若者の政治に対するアパシーが原因のひとつにはあると思います。しかし、そういった歴史を闇に葬ろうとして(というと大げさかもしれませんが)教えられなかったというのもあります。今回の講演を通じ移民や入管に関してもっと見識を深めていこうと思います。

○なに故に、朝鮮人たちは日本へ戻って来たのでしょうか。彼/彼女等がそうせざるを得なかった実状を知りたいと思っています。特に強制動因被害者が一度帰りながら、再び戻って来たケースについて詳しく知りたいです。

○挽地さんの考察のなかで、実際に収容された人の聞き取りの例は語られませんでしたが、実際を聞きたいと思いました。

○収容所の存在を知らなかったので、在日コリアンの人たちにとって大村が重要な場所であったことに驚きました。日本の問題の多い入国管理の原点を見た気がします。



5/7 (金)
洪貴義(政治学、思想史)「在日の過去と未来の間」
5/15(土)
挽地康彦(社会学、移民研究)「大村収容所の社会史」


6/4(金)
金貴粉(国立ハンセン病資料館学芸員)「解放後における在日朝鮮人ハンセン病患者と出入国管理体制」
6/5(土)
講師:五十嵐泰正
上野フィールドワーク−上野の山と街を歩く
6/18(金)
鄭栄桓(在日朝鮮人運動史)「朝鮮『解放』と在日朝鮮人の法的地位」
7/17(土)姜信子(作家)
「われらの記憶、もしくは空白  〜語りえぬ記憶の接続法〜 」
7/24(土)崔真碩(朝鮮文学)
「李箱 生誕100年」
 
10/30(土)米谷匡史(思想史)
「大阪朝鮮詩人集団のサークル文化運動 ――詩誌『ヂンダレ』と「流民の記憶」」