在日本韓国YMCA移住者のリアリティTOP第3期「レイシズムを考える」(2010年4月〜7月)>辛淑玉 



(各時期の講座記録・参加者感想)

(2009年5月〜7月 アンジェロ・イシ×小ヶ谷千穂×五十嵐泰正×森千香子×山本敦久)

(2009年9月〜11月 挽地康彦×稲葉奈々子×高谷幸×鍛治致)

(2010年4月〜7月 辛淑玉×樋口直人×鵜飼哲)

(2010年10月〜12月 李孝徳×木下ちがや×金明秀×安田浩一)


第1回 10/2(土)18:30-20:30
「日本における植民地主義と人種主義」
李孝徳 Hyoduk Lee (東京外国語大学教員)
【内容】
≪いま必要なのは、世界史的な(グローバルな)文脈において、「帝国」日本の植民地主義を問い直し、近代国家「日本」の成立と発展を人種主義の観点から批判的に再分節することを通じて、人種主義に対する批判力と免疫力とを広く、深く社会化することであろう≫(「人種主義<レイシズム>の歴史のなかの日本」『インパクション』2010年5月号)
【プロフィール】
1962年生まれ。表象文化論・ポストコロニアル研究。著書に『表象空間の近代――明治「日本」のメディア編成』(新曜社)、編書に『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社)、『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社)、訳書にジョージ・M・フレドリクソン『人種主義の歴史』(みすず書房)、ほか。


講座の記録 大曲由起子(移住労働者と連帯する全国ネットワーク)
 連続講座「レイシズムを考える」第4期は、植民地主義が日本における人種主義にどう結びついているのかを考える李孝徳さんの講座から始まった。日本には人種主義に対する感覚がなく、それを打開するためには歴史的・社会的に構築されてきた・されている日本の人種主義の顕在化と意識化が必要と李さんは言う。その日本における「歴史的・社会的に構築されてきた人種主義」を分析してみると、近代日本の平等思想、国境画定に伴う異民族の吸収・同化と「日本人」の画定、植民地における支配のレイシズムといった、きわめてユニークな構造を持ってきたことが分かる。

<人種主義に対する感覚がない日本>
 「学生達は『日本には人種主義は少ない』と平気で言うんです。」と冒頭で李さんは述べる。
 日本は人種差別撤廃条約批准まで30年かかったが、(146カ国目)長年批准しなかった理由は日本政府の「日本に人種差別はない」という見解だったからだとという。また、外国人地方参政権を未だ認めていない点、マスコミの「レイシズム」を批判する論調の欠如を挙げ、人種主義が存在するという意識がない日本の社会を指摘した。
 今一度教育の現場を見てみると、ネイティブアメリカンについては知っているが、アイヌについては学生は無知であったり、日系アメリカ人についての説明をするがその後在日コリアンについての説明をすると、学生は黙り込んだりするそうだ。また、日系ブラジル人に対する差別については語るが、在日コリアンに対する差別に話題を振ると、学生は、「それは時代が違う」と言う。
 というわけで、どうもある一定のところに行くと、「ブレーキがかかる」ようだと李さんは言う。日本国内の人種差別については語らず、中でも特に旧植民地出身者に対する差別についてはもっと遠くに身をおいていたい、そのような感覚を年齢に係らず日本人が持っているのではないかと言うのである。
 「過去の植民地主義をゆがんだ形でうけとめ、今の人種差別行為をしている」という日本人。歴史的・社会的に構成されてきた人種主義を意識化・顕在化することが今必要と李孝徳さんは言う。


<人種主義とは何か>
 そもそも人種主義とは何なのか。李さんはフレドリクソンの定義を述べる。「支配的権力を持つエスニック集団や歴史的な集団が、別な集団に対して、否定的に認知される身体的・文化的な集団的差異を共役不可能で、遺伝的に不変であると規定して本質化(=人種化)し、優劣/劣等で階層化された人種秩序を作り上げた上で下位へと位置づけ、その劣位性を社会悪と見なして差別、周縁化、支配、排除、殲滅といった暴力を合理化しつつ、社会的に行使すること」が人種主義というのである。この定義は日本の辿った人種主義の形成にも当てはまるというのが李さんの主張だ。
 また、「レイシズム」という言葉はホロコーストを批判しそして分析する際に持ち出された言葉であり、そして奴隷制の問題を捉えなおす、ということにもつながった。やがて「人種主義」は白人によるアフリカ系アメリカ人への差別や植民地主義に伴う異民族の迫害・差別に適用されていったのである。


<なぜ人種主義は生まれたのか>
 なぜ人種主義が生まれたのかと問うと、なるほど、先に述べたフレドリクソンによる説明が欧米はもちろん日本にも当てはまると、李さんの講義から納得できる。
 李さんによれば、ヨーロッパでまず「平等」によって差別と排除が意識されるという逆接が生まれたと言う。例えばキリスト教の教えの下、「神の前の平等」を前提としたナショナル・アイデンティティの出現を経験したイベリア半島では、ムーア人に対するキリスト教徒の攻撃が始まる。スペイン性とキリスト教が不可分になり、改宗したユダヤ人やムスリム人が排除の対象とされたのである。
 また、大航海時代にヨーロッパは非ヨーロッパを「発見」し、支配や奴隷制を合理化するために文明の波及ということを謳うようになる。大航海時代を背景とした資本主義により人間が生産的単位として無差別に序列化し、差異を求める運動へと発展する。植民地から主宗国へ出稼ぎが生み出したものは差異の可視化であり、これによってさらに序列化が進むという過程が生まれる。
 更に市民革命と啓蒙思想は人間を合理化しようとしていく。人権とは何か、という考えの中で「人権を持たない人」というものが生まれたと言うのである。そして市民権が創出されることで「誰に与えるのか」「人間とは何なのか」「劣った人間には市民権を与えない」という考えが構築されていく過程を李さんは説明する。
 そして李さんによれば、日本でも江戸幕府が儒教と土俗の社会倫理を利用して民衆支配システムを作り上げ、被差別部落の人を異民族として他者化した。また、先住民を従属させていく過程は、人種秩序を構築すると共に行われた。台湾と朝鮮でも皇民化政策のもとで差別政策を実施し、南洋諸島においてはヨーロッパ諸国がそうしたように文明観を持ち出し、野蛮なものとして扱った。
 また、ヨーロッパで「平等」が差別と排除を生んだように、天皇の下での臣民の「平等」という明治国家のイデオロギーの延長として構想されたのが大日本帝国の人種主義体制だと李さんは続ける。「天皇の下で平等」という発想は同化政策に結びつき、日本人と非日本人の差異化は皇民の濃度に転換され、それがまた平等の度合いに対応していく。このようにして帝国内の秩序化が成立したというのである。日本人化すると言いながら、日本人ではないことを意識化させる、不平等であることは日本人ではないことから起こるのだと思わせる、そこから日本人になれるように努力する人たちを生ませていく、(日本人に同化=平等の度合いが高まる)という構図を李さんは説明する。「同化と差異化はコインの裏表」なのだ。
 他方でこの大日本帝国の国家イデオロギーは、ヨーロッパに対する屈辱感も兼ね備えている点を指摘し、李さんはこのコンプレックス(つまり、植民地への優越感とヨーロッパへの屈辱感)こそが、人種主義体制を生じさせる歴史的条件だというのである。この点で、日本はフレドリクソンの定義にもれない。


<現代日本のレイシズム>
 戦後、植民地を失ってもなお日本の人種主義が消えることはなかった。李さんは現在日本が抱える様々な人種主義の例を挙げる。日系中南米人労働者への差別、その他在日外国人に対する日常的な就労・住居・生活に係る差別、東南アジアにある日本の多国籍企業による差別的態度、外国人女性のセックスワーカーなど、多様な差別が行われている。

<まとめ>
 日本の人種主義は、植民地主義のそれを筆頭に、世界史的な人種主義生成の背景と結びつけられている。さらに、植民地主義の下での人種主義を反省することなく残存させているため、現在の人種主義に抵抗し批判する社会的準備が日本にできていないと李さんは説く。歴史的・社会的に構築されてきた・されている日本の人種主義の顕在化と意識化が必要であり、それによって批判力と免疫力を付けていくことが必要であると李さんは訴える。
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 義務教育課程にあるアメリカの高校生は、ネイティブ・アメリカンへの暴力・排除・差別の歴史や、黒人への差別と60年代の市民権運動の痛烈な(歴史と言うより)記憶を、それら被差別集団を含む様々な背景を持つ生徒が一つの教室で学ぶ。
 アメリカにも依然差別問題はある。だが、徹底した人種主義の顕在化と意識化を公的な義務教育の中で同国のように日本が行っているかというと、日本には努力が足りないと痛感した。日本で人種差別禁止法の制定やヘイトクライムへの加重刑罰などが未だ行われていないことにもそれが現れているのではないか。
 教育の現場で人種主義に対する「批判力と免疫力」を若者につけようと実際に実践されてある李さんの働きの重要性と必要性を改めて認識するものだ。この講座もそのような一助になっていればと思う。


参加者の感想
○ とても良かったと思います。傍証がきちんとしていて説得力がある。
○ 日本で急速に進む多文化社会と人種差別に対する意識の薄さという乖離に、改めて驚きました。
○とても勉強になりました。でも、うっかりしたことは発言できないな、と少し怖くなりました。
○ 「平等」や「人権」というものが、逆に平等や人権を持たざる状況を生み出すという逆説があるなかで、どこをその突破口にして、その問題をといていくのか、ものすごくむずかしいと思いました。天皇や神が「付与」する権利を、もっと違う形で「権利のための権利」を産み出していく契機をもっと考えねば、と思います。
○ 初めて「レイシズム」に触れる機会でした。とてもわかりやすく、難しい言葉や話を使ってなかったので、大変助かりました。知識に留めるのでなく、自分の問題になる共通点(被差別部落問題)から近づいていきたいです。
○ レイシズムという、ある意味論じにくいテーマで、始めは少し疑いつつ効いていたが、たいへんクリティカルなもので、面白かった。
○ とても有意義な講座でした。特に、ヨーロッパ・アメリカでのマイノリティの問を日本の現在の問いとして結びつける作業はとても難しいと思いますが、それでも続けていかなければならないと思います。文学を、人種主義の歴史を教える過程で用いること、単なる例としてではなく、人種主義を見すえるために読むことについて、もう少しお話をききたかったです。
○ 人権というものがフランス革命のときに既にナショナルな枠を脱しきれるものではなかったというところから権利というものをもう一度考えなおしていく必要があるのではないか。その問題関心をまた考えることができた。人種主義がある意味「人種なき人種主義」と言えるようなものになりつつある中で、人種主義の射程をもう一度考えなくてはならないのではないか。
○ レイシズムの病理…これを強く意識していきたいと思います。親(オモニ)たちの話で、就職状況をきくと厳しいものがあります。アルバイトでさえも本名(民族名)ではなかなか決まらず、試しに通名で願書を出すと一発合格だった……なんてことがあって、考えさせられました。“本名を名のれない”これは在日の弱さだけが原因ではないと思います。病理とも言うべき人格のゆがみ、自己肯定感の欠如を招きます。
○ 「無知」というより「意識化」されないのはなぜか?他国というよりか「隣の人は何する人ぞ」なみに、無関心なのはなぜか?私たちは共存しなければ生きていけないのは明らかであるのに、「共に」「生きる」というよりかは「独り」で生きているような木がするの。この事が、人権の問題とどう関係しているか?私は思うに、お金さえ稼げれば、すべてうまくいき幸福になれるという思い込みではないだろうか?
○ 戦後に定着した(させられた)単一民族神話について、戦前・戦中は、侵略戦争に密接してますけどいわゆる五族という用語で脚色された“多民族国家”といういものだったかとみられます。けれども戦前身近に“多民族”を意識していたわけではないとみられます。
○ 本の販売をご許可いただき、ありがとうございました。歴史と現状を結ぶ大変貴重なお話でした。
○ 非常によいお話でした。