在日本韓国YMCA連続講座Cut'n'Mix

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Cut and Mix通信 4号

「コリア・在日・日本」連続セミナー2002〜2003



連続セミナー「在日」:Cut and Mix第4回講座

『正統化される「精神の排外主義」−危機に臨んで』高橋哲哉



『正統化される「精神の排外主義」−危機に臨んで』高橋哲哉

 

昨年12月6日の第4回講座Cut & Mixは、当初、世界中のディアスポラのひとつの流れとして在日を捉えるべく「ヨーロッパの排外主義とポストコロニアリズム」というテーマを予定していた。しかし、昨今の日本社会の危機的状況の点から話したいとの講師からの要望を受け、『正統化される「精神の排外主義」――危機に臨んで』というテーマに変更し、高橋哲哉さんを迎えておこなわれた。参加者は25名を数え、講義、質疑応答の後、同じ場所で懇親会をおこなった。その場でも、質疑応答が引き続きおこなわれ、参加者それぞれの感想が述べられるなど、有意義で深い交わりの時を持った。
  講師はテーマを変更された理由について、「排外主義」をテーマに取り上げるのであれば、この間の日本の社会、歴史、思想の様々な分野の流れを見ていれば、足元の排外主義の問題をどうするかということを考えざるを得ない、と語られた。また講師は現在、歴史認識と教科書問題で、教育基本法の改悪に対して反対されるなどの言論活動を活発におこなわれている。この講座でも教育基本法の改悪は「精神の排外主義の正統化」の典型的な例として挙げ、在日コリアンと日本人の関係、排外主義の問題とどうかかわっていくかを以下のように述べられた。

【9・17以後の状況/「制度の排外主義」と精神の排外主義】
  現在の状況を極めて厳しい排外主義が跳梁していると規定される。そのあらわれとして、まず、9・17の日朝首脳会談、平壌(ピョンヤン)宣言により国交交渉の正常化への道筋がつけられようとした。しかし、拉致情報をめぐって、非常にヒステリックな状況が生まれてきた。会談直後は新聞などの見出しはまだ冷静だったが、瞬く間に拉致問題一色になり、「被害者としての日本」を垂れ流していった。日朝交渉はそもそもが過去の清算、克服がその根本にあり続けていたが、残念ながらそれらは首脳会談の前でもマージナルなものとして報道されていた。今となっては歴史について何か言うと袋叩きにあいかねない。「日本は被害者」――それが世論であるかのようにマスコミが報道する。その中で極めて残念なことだが在日コリアンに対して、精神的物理的暴力が起こっている状況がある。また、これらは「核疑惑」や「テポドン」の時に一部の報道や人間によって繰り返されあおられてきた。それが今では社会全体であおっている様子だ。これこそが排外主義であり、これは断固として許されないものだ。人種差別撤廃条約の水準から見ると犯罪である。まさしくこれが今まで克服されずにきた「精神の排外主義」だと思う。それは最も暴力的な形であらわれる。
  一方、法などの一定の社会秩序の中に外国人差別・排外主義が組み込まれている時、それを制度の排外主義とよびたい。在日コリアンへの差別的な制度に見いだされるだけでなく、厳密に追求すると憲法レベルでも、「国民」という概念・言葉も制度化された排外主義といえる。精神の排外主義が制度として規定されることは、すなわち精神の排外主義が正統化されると言い換えられる。制度の排外主義は、精神の排外主義がその社会の中で大前提とされる。その典型的なあらわれが教育基本法の改定に見られる。

【学校教育の現場】
  学校教育の現場でどのように精神の排外主義が正統化されるかを見たい。在日コリアンの子どもたちの多くは日本の学校に通っている。従って、日本の学校教育現場は在日外国人と日本人との共通の問題の場であるといえる。学校現場の精神の排外主義が徹底的に進められてきたものは1999年の君が代・日の丸の強制である。
  しかし、それらは朝鮮戦争の時期にも遡ってあらわれてきていた。学校現場でのマニュアルに過ぎない学習指導要領は占領中の第2回まではゆるやかなものであった。しかし、第3回以降(1958年)は法的基準であるかのように厳しくなり、「道徳」の時間と戦後初めて「日の丸」「君が代」が持ち込まれた。第7回(1998年)にいたっては「日本人」「愛国心」の育成という排外的なものになった。一方1999年には唐突に国旗国歌法が国会で成立した。政府はその時は国旗国歌をおしつけるものではないとコメントしていたが、実施率を高めることを強化し、それに反対する教師に対する締め付けは厳しくなった。1999年は教育現場における「精神の排外主義の正統化」の序章であったといえる。
  2002年度福岡市の69校(全体の2/3にあたる)の小学校通知表で愛国心が3段階で評価された。京都でも数校、埼玉でもあった。福岡の「ウリサフェ」が抗議したところ、教育委員会は学習指導要領にあり何ら問題はないと抗議を突っぱねてきた。「愛国心」の評価は国旗国歌法と相俟って、子どもたちにプレッシャーを与えているのではないかと危惧している。
  また、道徳の“副教材”として、「心のノートが」が2002年度4月から1億(?)近い予算を使って1200万部が作成された。これらは教科書でもなく、副読本でもない。従って、検定にはかけられず、その使われ方は道徳の時間だけに限らない。内容を見ると子どもの全日常生活の中で書き込みをする仕組みになっている。著者の名前はなく、発行元として文部科学省の名があるだけである。これは小中の9年間を通して、国家が子どもの心に介入し続けることでもある。それは4段階になっており、@自分の心と対話、A自分と他人との関係、B自然・生命など人間を越えたものへの畏敬の念をおぼえる、C集団生活への忠誠が植え付けられる。
  このように、日本人としての心を求めることで、在日コリアンをはじめとした外国人の子どもたちは排除されるか、同化され、すでにそういうプレッシャーの中に置かれている。この状況こそが排外主義そのものである。

【教育基本法「改正」は何を狙っているか】
  同時に教育基本法の「改定」も進められている。中教審の中間報告に愛国心、公共の精神が持ち込まれている。学習指導要綱のレベルでは規定の事実を積み重ねてきたが、教育基本法に盛ることが案としてでも出てきたのは初めてのことである。2003年の春までには中教審の最終回答を出し、通常国会で全面的な「改定」をしたいともくろんでいるのが自民党の有力政治家たちである。もともとは、故小渕首相が教育基本法の見直しを初めて言明した後に森前首相が熱心に推進した。しかし、その背後にいるのは中曽根康弘前首相である。小泉内閣の今度の改造で文部科学副大臣に河村健夫がなった。彼は自民党の改革実働部隊の中心メンバーであり、「平成の教育勅語」を準備したいと発言している。また「新しい教科書を作る会」でもそうだったが、今の日本における右派の運動の背後には必ずいると言われる「日本会議」という強いグループがある。その「日本会議」と密接な関係にある「日本会議国会議員懇談会」には国会議員が200名も関わっている。その会長には自民党政調会長の麻生太郎がなっており、2002年11月18日におこなわれた「日本会議」「懇談会」の創立五周年記念大会では、@憲法「改正」、A教育基本法「改正」、B靖国神社の首相の参拝の定着化、C「道徳心」の国民運動の4つを決議している。
  1947年に制定された教育基本法は日本国憲法の平和主義を取り入れている。日本国憲法は「国民規定」をすることで厳密に追求すれば「制度の排外主義」ではあるが、前文において国民国家の理念を乗り越える普遍主義があり、それは精神の排外主義を乗り越える。しかし、「改正」教育基本法はいわばその普遍性を捨て去り、精神の排外主義を正統化しようとしている。思惑通りに変わると学校が排外主義の現場になり、それが「正統」なものとされる。

【人権と国民国家】
  国民国家のなかの人権は決して安定的なものではない。日本国憲法と教育基本法には国民国家を乗り越えていく個人の尊厳と徹底した平和主義普遍的な価値があると評価する。
 しかし、一方でそれらは“国民”にしか保障されないことも私たちは覚えておかなければならない。最終的に私たちはそのような「国民国家」をどのようにのりこえていくのかが重要である。
 ハンナ・アーレントはドイツ在のユダヤ人女性であった。アメリカに亡命し、市民権を得た後の著作『全体主義の起源』(みすず書房)のなかで、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言などに明記される「生まれながらにして自由・平等」の価値は、実は普遍的ではなく、その国民にしか与えられていないものとしてしか機能していなかったとした。当時、難民(国籍を失った人 中心はユダヤ人)が数多くヨーロッパをさまよっていた。国民国家の枠を越えた時、ただの人間になったとき、人権を奪われ、それを保障してくれるものは何もないことを身をもって知ったのである。

  しかしそれでよしとはせず、国民国家を越えた、何らかの共同性秩序が作られねばならないと求めた。たとえ今に至ってもその姿がみえないとしても、また矛盾を解決する見通しがなくても、国家を越えた公共的な秩序が必要とし、それへの試みが制度の排外主義を乗り越える手だてとなるとした。

●まとめ●金弘明

●発行●2002年1月10日
●編集●金 弘 明/洪 貴 義/佐藤信行