「旗の彼方でいかに出会うか」鵜飼哲氏講演を聞いて
2006年ドイツ・ワールドカップ、フランスは準優勝で終わった。健闘を終えて晴れがましいはずのこのチームには、しかし「苦み」を味わっている選手がいる。決勝戦の終了間際、キャプテンのジダンが対戦相手のイタリア選手に 「パッチギ(頭突き)」を食らわせ退場になった。しかもこの日は同時に彼の引退の日でもあったからだ。
行為の理由は明らかではないが、家族に対する宗教差別的な発言をされたことが原因といわれている。国際サッカー連盟は終始、人種差別反対の態度を貫いていたが、ピッチ上で人格の侮辱がこのような形で表面化してしまったことは残念な結果というほかない。
一方、東アジアには北朝鮮によるミサイル実験に過剰反応をし、危機をあおることで国防意識を高め、朝鮮半島の「敵基地攻撃」を唱えて敵対感情を現わにしている国がある。在日の児童への暴行事件も起こっている。
西と東で起こったこの二つの出来事はもちろん無関係なものにちがいない。しかしここでは、互いに切り離されたこれら事象をつなげて考えてみたい。それが6月の鵜飼氏の話とつながるからである。彼が語ったのは「旗の彼方でいかに出会うか」つまり「国家対国家」という枠組みをはずしたところで、わたしたち民衆が他者といかに出会うことができるのかという問題提起だった。そして現在のその問題を考えるために、過去へさかのぼる、つまり歴史をくぐり抜ける必要があるというのが結論であった。国旗はためくもとに人々が集まり熱狂するというナショナリズムの構図の彼方で出会い直すためには、一見すると後退したように見える「過去」への立ち返り、つまり歴史に直面しなおす経験をへなければならないのである。
フランスにおいてはアルジェリアへのかつての植民地支配と連動した、現在にまでつながるマグレブ系移民への差別やイスラモフォビアが根を張っている。日本においてはかつての朝鮮半島への帝国支配の歴史的記憶は正当化や否認の誘惑に抗しきれず、空疎に回転せざるをえない。韓国と北朝鮮にとっては、その記憶は棘のようにささったままで、痛みは現在も消え去らない。
このような時、ではわたしたちは「旗」の彼方でいかに歴史と出会い、それを現在の覚醒のために再生することができるだろうか。安易な結論をここで述べることはできない。一人一人が考え、実践する中で考察していくほかはないだろう。
洪 貴義
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